山岸の水路跡 4-3
山岸1丁目 「底水戸」とは
出典:国土地理院を元に作成
現場での調査、写真の分析、そして今回たいへん役に立った書籍『山岸の歴史散歩』(岩手県立図書館に収蔵 K/211/キタ/ )の文章を元に、この丁字路の状況をまとめてみました。(私の推定も入っていますので「ハズレ」ているかもしれません)
おそらく、こんなふうになっているのではないかと。
出典:国土地理院を元に作成
増水時には、開渠の水を止めて、河北の桜川下流側(盛岡市街地)へ流れる水を、中津川に出すつもりであろうと。
いや、それなら最初の分岐のところに、水門を設置すればいいかとも思う・・
と、ここまで書いて(地図まで作って)から、水門の写真を見ていたら、ふと気が付きました。
2024年1月20日に撮影
これはそもそも「水門を開け閉めする」つもりがないのでは?。
よく見ると、暗渠側との水門扉がかなり低くまで降りていて、扉の上端部が水路側壁より下がっています。
これであれば開渠の「河北の桜川」が増水しても、下がっている部分から水が溢れて、暗渠の方に流れ込んで、中津川に放流されるということでしょうか。
改めて『山岸の歴史散歩』を読み直してみると、
38ページから引用
「外山川の食糧事務所裏は「底水戸(そこみと)」と呼ばれ、外山川は樋状となっており、樋から溢れることによって下流の水量調節を計り、愛宕山下の水はその下を潜り外山川の溢れ水と一緒になって中津川に落ちる構造となっていた。何時頃に造られたものか判然としないが、御薬園への浸水対策と思われ、現在の水門の構造は「底水戸」を思わせるものがある。」
やっとのことで、
「現在の水門の構造は「底水戸」を思わせるものがある」
が、どういう意味なのか理解できました。そういうことだったのか。
素人が一人で悩んでいても埒が明かないのだから、さっさと「盛岡市上下水道局」なり「盛岡市建設部河川課」に、問い合わせればいいことなのですが、
自分で調べて、自分で考えるのが、やはり好きなのです。
この「底水戸」の旧経路も見つけましたので、まだ続きます。