上田4丁目と高松2丁目 田圃跡の水路 4-2
水源の考察 ここへの水はどこから?
地図出典:国土地理院を元に作成
この平坦で広い元農地は、古い北上川による河岸段丘下の段丘堆積物です。
北側から東側にかけて段丘が取り巻き、その方向からの水の流れを遮断しています。
北上川は、断崖の十数メートル下を流れています。取水は無理でしょう。
南側に緩やかに傾斜していますので、高松の池方面からの流路も不可能です。
では、どこからこの田圃に水を引いていたのか?
2万5千分の1地形図「盛岡」明治44測量・大正5年発行を、「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)より閲覧してみました。
当時はまだ田圃はなく、桑畑や杉林のある原野でした。(黄金競馬場は、この後でちょっと触れます)
そこに、北上川の上流から引かれている水路が描かれています。等高線に沿って流れつつ、北上川沿いの断崖を経て、この地に至っています。
こんな水路があったのか、と思い、グーグルマップの航空写真を使って、痕跡がないか見てみました。また、1948・1965・1976年の航空写真も調べてみました。
その時は、結果としては見つけられませんでした。
後の時代の、2万5千分の1地形図「盛岡」昭和14年修正・昭和16.7.30発行を、「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)より閲覧してみます。
確認してきた田圃と同じものが描かれています。水路位置もほぼ同じでしょう。
しかし、前述の北上川沿いの水路が、まったく記載されなくなっています。
様々な、疑心暗鬼が頭の中で渦巻きます。
そもそも、あの北上川沿いの水路は、本当にあったのか?
太い等高線とかを見間違えていないか?
→ 水路の線が、等高線をまたぐところもあった。
トンネルになっている表記もある。
それほどの水路なら、航空写真に痕跡がないことがあるのか?
今までの経験上、そういった土木施設は何らかの痕跡があるはずだ。
なぜ昭和14年の地図に記載されてないのか?
その後も昭和30年代までは、田圃が実在しているのに。
谷まで横断して、あんな崖沿いに水路が通せるのか?
この時点で、この北上川沿いの水路は、実在したか分からない、と思いました。
(後でこれが間違いだったとわかるのですが)
そして自分で、この田圃への経路を模索し始めます。
水路管理者や、農業関係者に聞けば、すぐ分かることなのかもしれませんが、
とりあえず、自分で調べるのが好きなのです。
すみませんが、まだ続きます。