3. わからないこと
とにかく記録がない
今まで調べに行ったり、お話を伺いに行ったところは、岩手県立図書館、岩手県議会図書室、岩手県土木部 道路整備課、盛岡市役所 道路管理課、盛岡地方法務局、株式会社 岩鋳 営業部および飯岡工場。図書館は自分で調べるだけでなく、レファレンスもお願いしました。
また、土木工事関連業者の方、土地家屋調査士や測量士の方、鋳鉄境界標のある場所にお住まいの方などに、いろいろお尋ねもしました。
結果としては、分かりません、記録がない、記憶がない、ということばかりです。
私が調べるべき場所や方法を間違ったとしていても、なにか一つぐらい事実が出てきてもよさそうに思うのですが・・。
役所であれば観光課、民間なら新聞社など、まだ調べに行っていない場所もあるので、今後の課題としたいです。
本当に道路境界標なのか
これが境界標なのか?、というのは一番はじめから思っていたことでした。岩手県鋳鉄境界標「小」を除けば、肝心な境界の「点」や「線」を示す印が見当たらず、境界標の意味がないのではと考えたからです。(岩手県鋳鉄境界標 小 は、その反省を取り入れたのかもしれません。)
通常は矢印や十字の中心など、赤で加えた境界線の「点」や「線」の位置を示す印がある
境界点を示す印のない四角い石柱などが、境界標として認められる事例はありますが、いささか複雑な手続きが必要となってきます。この境界標も測量や境界査定を経て、境界標として認められているものもある、と判明しました。詳しくはいずれ後述します。
しかし戦前ならいざしらず、高度成長期に、そして「岩手県」の名を堂々と入れて、境界点のわかりにくい境界標をなぜ作ったのか?という点と、境界点としては中途半端な位置に設置されているものが、多々あることに対して、納得できる理由がまだ見えてきません。
なぜ作られたか
この鋳鉄製の境界標が作られたのはなぜなのか。なんとなく想像はできます。
高度成長と東京オリンピック(1964年のほうです)、盛岡バイパスや中ノ橋通の106号線の開通、昭和45年(1970)の岩手国体と、いろいろと盛り上がっている時期だったでしょうから、「南部鉄器の道路境界標を設置して、岩手の鉄器をアピールしよう」みたいなアイデアが出てきたのかもしれません。
境界標としては不可解な点もあることから、道路の改良・開通時の「記念品」的に設置された、なども考えました。結局のところ、当時、山のように行われた行事や事業の中の一つに過ぎず、すでに忘れ去られているのでしょうか。
それでも数百個の実物が現存している「結果」を見ると、最初の発案、作られた理由、当時の反響、などが知りたくなります。
いつ設置されたのか
初期のものが設置されたのが「昭和40年代前半ではないか」と考えたのは、国道4号線盛岡バイパスとの関連でした。盛岡バイパスの工事は昭和39年(1964)から44年(1969)にかけて行われています。そして今まで確認した鋳鉄境界標設置位置の全てが、盛岡バイパスの内側(バイパスの南側、西側)に収まっていたからです。
ただし確証なしの推定なので、実際いつ設置されたかは記録がないので分かりません。個々の道路の工事のときに一緒に設置されたのであれば、道路の履歴を調べればなにか分かるかもしれません。道路台帳の閲覧ではどうでしょうか。
道路工事とは別の事業で、鋳鉄境界標のみ設置された可能性も捨てきれません。
設置された範囲と数
最大の謎にして、答えを知りたくない気もする疑問です。
現在のところ、盛岡市以外でこれを確認したことはありません。 どんどん見つかってきています、どうしよう。
県道223号 盛岡滝沢線沿いでは、盛岡市を出て滝沢市に入ると設置を確認できませんでした。この時、少しほっとしたことを覚えています。「もしかしたら私は一生、岩手県道を歩き続けることになるのだろうか?」という心配が遠のいたからです。
それでも「岩手県」鋳鉄境界標ですから、県土全体のどこにあってもおかしくない訳ですし、ごくまれに「県道に面していない岩手県の施設」の隅に、ぽつんと設置されてたりすることもあり、油断できません。
管理や記録しているところがないとなれば、調査して確認するしかないでしょう。
でも盛岡市以外の市町村で見つかったらどうしよう、とか、全部で何個が、どこまで設置されているのか、などと考えると、「もしかしたら私は一生(以下略)」という不安が蘇ってくるのです。
2022.11.20追記
2022.11.27追記
2022.12.16追記
岩手県花巻市東和町土沢で「岩手県鋳鉄境界標」を確認しました。
2024.4.23追記
どうやら本当に、一生、岩手県道を歩き続けることになりそうです。