由来と歴史
簡単に
城下盛岡町名由来
鉈屋町(なたやちょう)
京都の富豪、鉈屋 長清が当地に来て、釶屋山(しゃおくさん、釶は鉈の異字体)菩提院という寺を建立したことに由来する。菩提院は後に移され、二つの鉈屋町が存在したこともあったが、文化9年(1812)に改められて、当地を鉈屋町として城下の一町とした。当地は江戸時代から良質の湧水が豊富な地域で、酒・味噌・醤油などの醸造業が盛んだった。
『盛岡砂子』によると思われる、盛岡市の看板から引用・改筆
・・と、ありますが、本当なのかは、かなり怪しいと思われます。
■延宝3年(1675)の『雑書』で「山刀屋町」と既に呼ばれている。
■鉈屋町の、どこに「釶屋山 菩提院」があったか、未だに分かっていない。
■「二つの鉈屋町」とされた移転先が、鉈屋町と呼ばれたことはない。
出典:『もりおかの地名』1990年4月16日、盛岡市
「京都に由来する名前」ということで、町名に箔をつけたかったのでは、などと邪推しております。
地図出典:もりおか歴史文化館収蔵『城下及近在図』を元に作成 クリックで拡大
1860年頃の盛岡鉈屋町周辺です。鉈屋町、水主町(かこちょう)、十文字辺りを「鉈屋町」と称していました。
北に盛岡城下の入口「惣門」があり、
・奥州街道(東京・仙台方面、国道4号線に相当)
・遠野街道(遠野・釜石方面、国道396号線に相当)
・宮古街道(宮古方面、国道106号線に相当)
三つの街道が集まる交通の要所であると共に、近くには
・新山河岸(北上川による舟運の終着河港)
もありました。水主町は、この港や上流にかかる舟橋で働く「御水主衆」たちの住む町でした。
明治以降、鉄道が物流の主役となって舟運が廃れ、その後の橋と道路の整備で、全ての街道(主要な道)も通らなくなりました。
現在では小規模な商店街、住宅街となっていますが、古くから残る町並みを活かした観光や、新たな方々による様々な店舗・工房の新設、令和3年度からの電柱地中化工事などと相まって、少しずつ変わりつつあります。