盛岡の水路跡


消えた 北上川上水堰(北上川上水路)4-2

新聞と書籍による、北上川上水堰の経緯


 「同級生が語る宮澤賢治 盛岡高等農林学校と宮澤賢治」によると、明治34年(1901)に、高等農林学校の敷地が上田地区と決まりましたが、水利権の関係で高松の池水系の水が利用できず、高等農林の農業用水の確保が問題となりました。

 明治36年(1903)の開校に間に合うように、明治35年(1902)に、盛岡市の予算で突貫工事が行われ、完成したのが「北上川上水堰」というわけです。


岩手日報電子縮刷版1904明治370120

 出典:岩手日報電子縮刷版 明治37年1月20日 クリックで拡大


 岩手日報電子縮刷版による、当時の新聞によると、

  総延長 約12.15km トンネル5ヶ所で延長約156m

  開削費 約6000万円 堰・護岸・橋・水門等 約1700万円
  敷地買収 約1000万円
  その他雑費を含めて総工費 約9800万円

  (明治30年代の1円が、物価比で1円:3800円、給与比で1円:2万円なので、1円:1万円で計算)


 できたのはいいのですが、開校の2年後、明治38年(1905)にはこんな記事が。


岩手日報電子縮刷版1905明治381110

 出典:岩手日報電子縮刷版 明治38年11月10日 クリックで拡大


 要は「盛岡市の予算」で作ったけど、水路自体がよく壊れる、崖沿いの経路が崩れる、その度に盛岡市の予算で修理している、これは根本的に直さなければダメだ、といったことのようです。「突貫工事」がまずかったのでしょうか。


 再び「同級生が語る宮澤賢治 盛岡高等農林学校と宮澤賢治」によると、明治40年(1907)に「用水路破壊」のため、高松の池を水源とする用水転換が行われた、とあります。

 作られてからわずか5年で、本来の目的を果たさなくなったことになります。


 その後、北上川上水堰がどうなったかは、詳しい情報がありません。岩手日報電子縮刷版 大正2年(1913)4月11日に、民間の田圃で北上川上水堰の水を使わせるかどうかの審議があった、という記事があるので、しばらくは周辺で使用されたのではないか、と思われます。


 ここで「同級生が語る宮澤賢治 盛岡高等農林学校と宮澤賢治」から引用です。


 「この用水路工事に関連する公的記録は殆どない。この用水路については、現在調査(文献・写真・古地図・現地踏査)が進められており、 近々「盛岡高等農林学校用水路調査報告書(仮称)」が出される予定である。」 だ、そうです。


期待しております。


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